もっと他に、出来ることがある筈だった。


でも、クロード、と小さな声で彼を呼ぶのが精一杯で。それさえも、嗚咽の色が濃くなりつつある私の声色ではまともには出来なかった。


私の唇も、彼の服――…私に彼を光の勇者だと確信させた異国の服だ――…を掴む手も、一向に震えるのを止める気配を見せなかった。


視界が滲む。頭が鈍く痛む。そして、やっぱり震えが止まらない。彼の体から流れ出でる深紅が、どうしようもない位鮮やかに、点々と地面に模様を描いてゆく。それがじわりと滲んで広がる度、私はそこに絶望を見た気がした。

 
痛い、と思った。私の何処かがしくしくと痛む。―…どうして?痛いのは私じゃなくて彼の方でしょ?私は体のどこにも傷なんて負っていない。だって、彼が守ってくれたから。
 
 
彼が私を守ってくれたから、私は無傷だった。私が彼に守られたから、彼は傷だらけだった。
 

私は何をしているの?私が遠い昔、あの日に手に入れた力は一体何の為に?
 
 
分かっている。するべき事は分かっている。それでも私はただ彼の服に無数の皴を作る事でしか今の自分を保てなかった。

 
…体が動かない。
 
 
毒針で留められた標本の蝶みたいに。


大丈夫、と彼が痛々しい位に微笑んだ。私のどこかがまた痛み出す。

 
あなたが。


あなたが、そうやって微笑うから。
 
 
私は本当に泣き出しそうになる。


彼の微笑みは、いつだって他人の為にあった。頭の中はいつも誰かの事でいっぱいで、自分の事なんかこれっぽっちも心配しない。

 
心の中でお願い、と叫ぶ。私の為なんかに笑わないで。あなた自身の為に笑って。


「エナジーアロー!!」


叫びと共に砂埃が舞い、閃光が走った。ああ、セリーヌさんの紋章術だ。私も戦わなきゃいけない。立ち向かわなきゃいけない。十賢者のひとり、メタトロン。それが今私たちの対峙している相手だった。ぴりぴりとした風が私の頬を刺し、少しだけ現実に戻れた気がした。
 
 
苦痛に侵食されてゆく彼の弱々しい笑顔を視界の隅に確かめ、私のやるべき事に集中する。
 
 
今私のするべきことは、狼狽して涙腺をゆるませることでも彼の体にすがりついて震えることでもなく、立ち向かうこと。

 
そうしないと、私は私が誰なのか分からないから。私の知らない世界の闇に飲み込まれてしまいそうになるから。
 

だから私は口ずさむ。彼に安らぎの光をあたえてくれるアリアを。
 
 
小刻みに揺れ動く唇ではあまりにも危なっかしいけれど、例えどんなにゆっくりでも私は出口に辿りつかなければならない。でなければ彼を救うことも、私自身を救うことも出来ないのだから。
 
 
…結局私は、彼を救うことで自分を救いたいだけ。
 
 
でも今はそんなことを思って落ち込んでいる場合じゃない。今にも壊れそうな彼の吐息がそれを充分すぎるくらいに教えてくれる。
 
 
私は尚も口ずさむ。救いたいから。救われたいから。闇に隠れた出口を手探りで探すかの様に、慎重に。お願い、早く辿り着いて。
 
 
…………見付けた。


「…フェアリーヒール」
 

彼の体に温かい光が溢れ落ち、途端に緊張の糸がぷつりと途切れる。目頭をごしごしと擦っていると、彼がまだ重々しさの抜けない体を起こす気配がした。
 

「クロード!!!」


「大丈夫。ここまで回復すれば」
 
 
「まだ全然ダメよ!お願いだからもう少しじっとして、」
 

「僕は」
 

ディアスの剣が立てる音がやけに大きく響き、私の耳に長々と余韻を残した。喧騒の中で、クロードの声だけはしっかりと確立していた。
 

「行かなきゃいけないんだ」
 

思わず、どうしてと聞きそうになった。そんなの愚問に違いなかった。彼に―…クロードにとっては、選択肢は初めからひとつだけなんだから。
 
 
立ち向かうことが当たり前で、此処でただじっと戦いを眺めているなんて選択肢は有り得ない。いつだって、たったひとつしかない選択肢に縛られて。
 
 
ねぇ、クロード。


行くってどこに?
 
 
あなたはたった一人で何処に行くの?

 
ディアスが切り込んで隙が出来たメタトロンの後ろにクロードが回り込み、衝裂破を炸裂させる。

 
「サザンクロス!!!」
 

十字星の流星が降り注ぎ、私達は勝利した。

 







「クロード」


宿屋のベランダで、闇夜に浮かぶ彼の背中に声を掛ける。
 

小さな声しか出なくて、ほとんど虫の声にかき消されてしまったのに彼は気付いてくれた。

 
「あ、レナか」


振り向いた彼はやっぱり笑っていた。


「…もう動いても大丈夫なの?あんなに酷い怪我だったのに」
 
 
「うん。レナのフェアリーヒールのお陰だよ」
 
 
「…そんなこと言って、無理してない?」

 
「してないって」

 
彼の底無しの優しさに少しの安心感を得る。
 

「どうしたの?こんな時間に」
 
 
「…『こんな時間』って。…迷惑だった?」

 
「ち、違うって!そういう意味じゃないよ!迷惑だなんて全然、」
 
 
あまりに予想通りの彼の反応に、思わず吹き出す。
 
 
「…もう、クロードったら。本気で言ってないわよ」
 
「…え?…あ、あぁ、そっか、良かった…」

 
慌てたり安心したり、ちょっとした一言で彼の表情はころころと変わる。


「…あのね、クロード」

 
 夜だということを差し引いても、今の季節には冷たすぎる風が私の髪で遊ぶ。

 
「時々、どうして自分が此処にいるのか分からなくなるの」

私は俯く。彼の表情を見る勇気なんて無い。
 

「私は、…今日戦った十賢者達と同じネーデ人で。その証拠である治癒の力を持っていて。」
 
 
さっきまで煩いくらいだった虫の声は、いつの間にか何処かに行ってしまっていた。
 
 
「私は、今まで自分はエクスペル人だって信じてたの。…お母さんが本当のお母さんじゃないって知ってたけど、それでも心の何処かで信じてたの。私はアーリア村で生まれた、お母さんの本当の子供だって。…でも、それを完全に否定されてしまった。もう、逃げられないくらいに。だから分からないの。自分が誰なのかも、どうして此処に生きているのかも。」


エクスペルの前線基地でのクロードを思い出す。
 
 
『僕は君を守る為に此処にいるんだ』
 
 
私とは違って、自分自身をしっかりと見据えていた彼を。私なんかよりもずっとずっと遠くを見つめていた、限りなく透明だった彼の瞳を。
 
 
「…クロード。どうしてあなたは自分の存在意義を、他人でしかない私に見出せるの?どうしてあなたはそんなにも強いの?あなたはたくさんのものを守れるし、自分じゃなくて誰かの為に生きているわ。でも私は違う。私は誰も守れない。私自身を守ることしか出来ない、弱い人間だわ」
 
 
力が欲しい。
 
 
守りたいものがあるから。
 
強くなりたい。
 
 
だって、そうじゃないとあなたを守れない。
 
 
それを想う度、胸の奥が鈍く痛むから。
 
 
そこで初めて彼の顔を見て、あの日と変わらない透明な瞳を見て、私はまた泣きそうになる。
 
 
「…僕はレナが思っている程強い人間じゃない」
 
 
彼の顔自嘲気味な笑いが走った。
 
 
「僕は、…多分、君の為に君を守りたいわけじゃないんだ。僕自身の為に君を守りたいんだよ」

 
闇夜が運ぶ冷たい風は今も尚私の頬をすり抜けているというのに、不思議と体は温かかった。
 
 
「僕は誰かの為に誰かを守ったり、自分が犠牲になったりできる様な強さは持ってない。自分以外の人の為に生きるなんてかっこいいことができる人間でもない。だけど僕は今此処に居るし、確かに生きている。それは難しいことじゃなくて、ただ単にこの世界に僕の好きな物や好きな人が溢れてるからなんだ。それを失うのが怖いから、自分の為に立ち向かう。それだけのことなんだよ」
 

彼は微笑む。とても優しく。
 
 
「大好きな物がある。大好きな人が居る。それだけで僕は救われるんだ。」
 
 
何かがどくりと波打つ。彼の触れたら壊れてしまいそうな笑顔を、永遠に何処かに閉じ込めてしまいたい感情に駆られる。
 
 
「レナもそれでいいんだよ。君は君だけの為に生きればいい。君だけを守って、君だけを大切にしてくれればいいんだよ。誰かを守りたいなら、その人の為じゃなくて君自身の為に守って欲しい」
 
 
私の中が少しずつ何かで満たされていく。とても朧だけど、温かい何か。
 

「…自分勝手な人間だって思われても構わない。自分の為に誰かを必要とするばかりで、嫌な奴だって僕も思う。」

 
「そんなことないわ」

 
はっきりと、即答する。
 
 
「例えどんな形でも、誰かに必要とされるのはそれだけで救われることだと思うもの。とっても素敵なことだわ」
 
 
そう言って笑う。

 
彼の目に、少しでもそれが綺麗に見えていてくれることを祈って、笑う。
 
 
…もう迷わなくていいんだわ。


私の隠していた暗闇を、彼が許してくれたから。
 
 
私は、私の為に彼を守っていいのだ。
 
 
私は決して強くなれたわけではないけれど、それでも私は彼と行こう。
 
 
私自身を守る為に。そして彼を守る為に。


「レナ」


「ありがとう」


彼のどこまでも柔らかい言葉が私の耳に届くと同時に頭の辺りに温もりを感じた。


それが彼の掌だと気付くのに、そんなに時間はかからなかったけれど。


「もう」


「子供扱いしないでよ」


私と彼の笑顔が、同時に弾けた。
 
 
END
 
 


†あとがき†
こんにちは、中2病患者の久湊です。今年32歳になります。嘘です。高校1年生の未熟者が私の正体です。
 
「笑顔」いかがでしたでしょうか。こんな私がクロレナ小説を書いてしまって本当に申し訳ない。書いてる間は常に発狂寸前でした。ていうか発狂してました。羞恥心だけで死ねたかもしれません。

 
クロードは「何故自分が此処にいるのか」分からなくなっちゃった人なわけですが、レナはそういうの無かったのかなぁ…と考えたのが元で作成された小説です。彼女は芯が強い子だから、クロードに守られてばかりの自分に嫌悪を抱いてしまうこともあったのかもしれない…と。


 読んで下さった方々に無限大の感謝を叫びながら、それではまたっ






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