『クレア・ラーズバードの一日』



 午前4:23 起床

 目覚めはいつもより七分早かった。きっと、いつもより七分早く寝たからに違いない。
 こう見えても私は朝が弱い。何より弱い。目覚めたばかりのおふとんは恋人より愛しい。
  このままずっとおふとんを抱きしめていられたならどれだけ幸せか。でも、残念なことに仕事がある。
 部下たちがやってくるまでにしなければいけない仕事は山ほどある。
 もうすぐ夜が明ける。そうすればシランド全体が動き出す。
 その前に準備を整えておくのがクリムゾンブレイドである私の役目。
 でも朝だけはその役目を放り投げてしまいたい誘惑にかられる。
「むー……」
 座った目で起き上がる。結局自分の仕事を放棄するだけの度胸はない。
 というより、そんな生半可な責任感ではこの地位をまっとうすることはできない。だからこそ自分はクリムゾンブレイドなのだ。
 とにかくまずこの頭と体をたたき起こさなければならない。
 いつまでもおふとんの中にいるとまた寝てしまいたくなる。だからすぐにおふとんから離れる。
 着替えと化粧品を持ってお風呂場へ。シランドは水が多いので、朝の水浴びができるのが嬉しい。アリアスでは考えられない。

 今日も一日、アペリスのご加護がありますように。



 午前4:58 朝食兼報告書確認

 もちろんお風呂といっても沸かした湯に入ることはできない。
 そんなことをしたら気持ちよくてまた寝てしまいたくなる。だから朝は水浴び。それで一気に目が覚める。
 手際よく身支度を整えて朝食。彼女より早く起きている料理長はいったいいつ寝ているのだろうか。
 だがそちらは私の管轄ではないのであえて尋ねないことにする。
 もし顔をあわせたら「たまにはゆっくり休んでくださいね」と声をかけるように心に決めた。
 食堂で食べるほどの時間の余裕はない。この朝食時間にどれだけ報告に目を通すことができるかがその日の業務量が変わる。
 従って彼女は自室で三十分かけてゆっくりとした食事を取りながら、今日の業務の優先事項を決める。
(どうやら、今日はお昼寝はできないみたいね)
 少しだけため息。
 彼女の一番の楽しみは、昼食後に少しだけ仮眠を取ること。といっても、三十分も眠ることはできないけれど。
 疲れているときに深い闇に沈み込むようにして眠るあの感覚がたまらない。そのかわり、起きるときがとても苦痛だけれど。
 今日の報告に上がっていた問題点で一番目を引いたのは、この一ヶ月のシランドにおける犯罪数の増加。
 シランドを守るのは【光】の任務。クリムゾンブレイドとしてはシーハーツ全体のことを考えなければいけないけれど、
 光牙師団の団長としては聖都シランドのことを考えなければいけない。
 治安が悪くなっているのは原因はいろいろとある。
 犯罪の類別を確認すると、どうやらアリアスなどの南方から移ってきた人々と、
 もともとシランドで暮らしていた人々との間の軋轢が問題になるケースが増えているようだ。
(窃盗とかのケースならパトロールの強化で済むでしょうけど、これはシーハーツ全体の問題ね。
 移民にばかり手をかけると元からの市民たちが納得いかないし、でも移民に手をかけなければその人たちの生活が困窮してしまう)
 あちらをたてればこちらがたたず、の典型例だ。
 そうならないように気をつけていたつもりだったが、やはり物事が完全にうまくいくことなど少ない。
(アーリグリフとの戦争からもう半年も過ぎているのに、難しいものね)
 アリアスの復興も進んではいる。現在のアリアスは通常通り【炎】が指揮している。
 現場監督は無論、抗魔師団長のルージュ・ルイーズだ。
 彼女の現場指揮は見事なもので、瞬く間にアリアスをもとの町並みに戻してしまった。
 次の収穫が来れば、人々の生活は少し楽になるだろう。
 今年は復興支援の名目上、アリアスからはほとんど税をとらないことにしている。
(だからといって、今からアリアスに戻ろうっていう人も少ないでしょうし)
 移り住んできた人々への就職口、家屋の提供などは全て済んでいる。それでも生活上の利便さは今までいた人々の方が断然上だ。
(これについては執政官の意見を伺うことにしましょう)
 そしてまた次の報告書を見る。
 そうしてあれこれと対策を講じながら食事は進む。時折手が止まっているときは、完全に集中しているとき。
 食事中にクレアの部屋を訪れた者は、食事を口に持っていった状態で固まっている彼女を稀に見ることができる。



 午前6:02 大聖堂にてお祈り

 午前六時になると彼女は大聖堂へ一度顔を出す。
 かつてはここへ顔を出すと、彼女とネルの共通の友人である、大神官の娘ロザリアがいて、いろいろと話すことも多かった。
 だが今はいない。アーリグリフの国王のもとへ嫁に行ってしまった。
 彼女は祈りながらいろいろなことを考える。大きなことではこの国のこと、光牙師団のこと、シランドのこと。
 小さなことでは今日の朝食はおいしかったとか、やっぱりまだ眠たいだとか。
 あと、個人的なことでは、最近ネルの自分への態度が冷たくなっているということだろうか。
 やはりネルとはまだしばらくうまくいかないかもしれない。
(普段なら、一緒にお祈りをしてくれていたのに)
 彼女は神を信じない。無論、口ではアペリスの加護を唱え、神の名の下に行動する。
 でも、彼女はその神のいいつけに背く。背かざるをえない任務に就く。
 だから自分には神を信じる資格がないと考えている。
 もっとも、あのアーリグリフ戦争の後くらいから、彼女はいっそう大聖堂に顔を見せないようになってしまっていたが、
 あの戦いでやはり神に対して失望でもしたのだろうか。
(一度、ネルとゆっくり話さないと)
 とはいえ、彼女は現在各地の視察に赴いている最中。残念ながら話すことができるのはまだ当分先のことになりそうだ。



 午前7:38 業務開始

 全ての準備が終われば彼女の仕事が始まる。報告書と格闘するのはいつだって上司の役割だ。
 朝食時はただ報告書を読むことばかりしていたが、今度は具体的な対応策を練らなければならない。
 紙とペンを使って指示書を次々に作成していく。
 この時間になると彼女の秘書的な存在である二級構成員のミリィ・シャオロンがやってきて、その作業を半分ほど肩代わりしてくれる。
 ヴァンを除けば彼女が自分のことを一番よく分かっているだろう。
 自分はシーハーツ全体に関する業務を担当し、光牙師団に関することはミリィが基本的に対応指示書を作成していく。
「ミリィ、その作業はあまり根詰めるものじゃないわよ。指針だけ作って後は部下回しにしちゃって」
「はい。それとクレア様、先日連鎖師団から要望が上がっていた新人研修の件についてですが」
「ああ、光牙師団、連鎖師団、抗魔師団の三師団合同でやるっていうやつね。どうしたものかしらね」
「確かに師団別にやるよりは合同でやった方が予算は少なくてすみますけど」
「今はあまりお金をかけていられないものね。でもそうなると新人研修は【光】でやらないといけなくなるわよね、当然」
「まあ、人員は【炎】と【土】にも出させるとして、予算は全体からという形になりそうですね」
「いいわ。でもその分【炎】と【土】の予算は減らす。うまく調整しておいてくれるかしら」
「了解しました。時期はいつごろにいたしますか」
「うちの研修はいつごろの予定だったかしら」
「今月末の予定です」
「じゃあそれにあわせるように【炎】と【土】に連絡しておいてくれるかしら」
「担当は」
「ヴァンとグレイにやらせるわ。研修統括をヴァンに。あと各師団の二級構成員を一人ずつ代表で出させて」
「分かりました」
「あ、ただ」
 はい? とミリィが疑問符を浮かべる。
「【炎】の代表にイライザはNGにしておいて。あの子、人に教えるのうまくないから」
「ふふ、了解しました」
 そうして次々に案件が片付いていく。やはり一人より二人の方がはかどる。
 実際、昔から仲の良いネルやルージュがいれば気楽に仕事ができるのだろうが、
 このミリィという忠実な部下がいてくれるからこそ、この光牙師団はうまく機能している。
 本当に彼女のおかげでどれだけ助かっていることか。
「本当、ありがとうね」
 ぼそりと呟くと、ミリィが「はい?」と聞き取れなかったように聞き返してくる。
「なんでもないわ。さ、残り片付けちゃいましょう」



 午前9:07 光牙師団訓練

 この時間になると政庁の全てがにぎわってくる。
 ラッセルやクレアから出された業務指示、さらには日常のルーチンワークなど、
 それぞれの部署でそれぞれの仕事をこなしていく。
 そんな中、光牙師団はパトロールの師団員を除いてこの時間を訓練時間としている。
 この時間にしているのにあまり理由はない。
 ただ先代師団長が「朝の方が気持ちよく訓練できるに決まっておろう」という一声でこの時間になったらしい。
 あの前任者にしては、随分まともな理由だと思う。正直、昼食前の時間帯の方が兵士たちの指揮は高い。
 体力トレーニングや武器の扱い、そして施術の使用にいたるまで訓練は続く。
 彼女も師団長としてこの訓練を統括しなければならない立場だが、そこはクリムゾンブレイド、他にも業務は山ほどある。
 三時間ある訓練時間のうち、途中の一時間が彼女の持ち時間。その前後はヴァン・ノックスが指揮統率を行う。
 一人ずつの能力をきちんと見定め、時には剣、時には施術、時には集団行動と、クレアは自分の部隊がどれだけの能力を持っているのかを確認する。
 それは一日で行うものではない。毎日継続して行いながら、不足しているところを徐々に高めていくのだ。
 今日は剣技。二人一組でペアになって、刃のつぶれた練習用の剣で打ち合う。
(やっぱりこの子、随分筋がいいわね)
 今年から四級に昇格した師団員。少し小柄な少年は、真面目で何事にも全力投球だ。
 その能力と将来性をかってヴァンとの合意のもと、四級に昇格させた。
「ちょっと待って」
 そのペアに声をかける。構えていた二人の師団員がそのままの体勢で止まる。
 彼女はその剣先に触れて、少し下に傾ける。そして彼の右手を取って、少し手前に引いた。
「どうかしら」
「は、はい」
「戦いはただ技術を誇るだけじゃないわ。心理的な要素が大きく影響を与える。剣がこの位置にあると相手の方は守りにくいものよ。どうかしら?」
 逆に相手の方に確認を求める。
「少し、威圧感が出たような感じがします」
「それは、剣先があなたの目に向けられているからよ」
 なるほど、と二人が頷く。
「ちょっとしたことが戦況を有利に導く。そのことを忘れないでね」
『はい!』
 そう。戦いというものは頭を使わなければならない。
 よく戦う相手の心理を読み取ることが大事と教える教官がいるが、それは自分に言わせれば真っ赤な嘘。
 相手の心理を読み取るのではない。戦いの中で相手を自分の思惑通りに動かせるのが一流だ。
 相手が右と左のどちらに打ち込むかを考えるのではない。相手に右にわざと打ち込ませるようにする。
 そういう揺さぶりをかける。相手の動きが予測できればいくらでも対処はできる。
 この少年はそこまで上り詰めることができるだろうか。



 午前11:56 昼食

 昼食はサンドイッチ。運動は午前中の訓練で終わっているので、午後からは栄養を消化できないので軽めにする。
 最近は美容にも気をつけている。何といってもお肌の曲がり角。きちんと手入れをしないとあっという間におばさんになってしまう。
「クレア様!」
 と、サンドイッチを二口食べたところで何か厄介そうな声が部屋に飛び込んでくる。ミリィの声だ。
「どうしたの?」
「市街で乱闘です。今、ヴァン様が何人かの師団員を連れて現場に向かいました」
「そう。ヴァンに任せれば大丈夫だとは思うけど、どんな感じ?」
「はい。西区の方で、その……」
「いいから、だいたい予想はついてるわ」
「はい。新住民と以前からの住民との間でのトラブルです。怪我人も出ているようです」
「困ったものね」
 どちらにも正当な言い分があるから困るのだ。まったく、どうすればこの街は平穏無事に進んでくれるのだろう。
「私も現場に行くわ」
「ですが」
「いいのよ。報告を受け取るのは私じゃなくて、ラッセル様の役割よ。私は現場をおさえるわ。グレイを連れてきて」
「分かりました!」
 ミリィはすぐに行動する。この辺りの切り替えが早いのがこの娘の特徴だ。
 すぐに同じ二級構成員のグレイ・ローディアスがやってくる。二人を従え、彼女はすぐにシランドの城下町に出る。
 シランド西区はアリアスからの住民がたくさん流れ込んできている場所で、新旧の軋轢がもっとも激しい場所だ。
 乱闘もない日の方が少ないくらいだ。
 彼女たちが現場に到着すると、予想通りヴァンがほぼ全て問題は解決していた。
 正直、自分は光牙師団のことは全てヴァンに任せてもいいと思うくらい、彼の能力は高い。
「これは、クレア様」
 長髪で美形の青年はかしこまってクレアに一礼する。
「話を聞くわ。どういう状況?」
「新旧の軋轢です。昨日の報告にも上げましたが」
「読んだわ。正直、ここまで続くとうんざりするわね」
「同感ですが、だからといって放置はできません。根本的な解決策が必要です」
「分かっているわ。光牙師団にできるのは問題が起こったらそれを解決すること。これはクリムゾンブレイドとしての役割よね」
「クレア様には、ご迷惑をかけてばかりで申し訳ありません」
「あなたが謝ることはないわ。何も手が打てない政治的な問題が一番なのだから、あなたは胸を張って業務にあたってちょうだい」
「はっ」
 周りを一瞥する。野次馬はたくさん集まっている。
 クレアがこの現場にやってきた理由はたった一つ。
「グレイ」
「はい」
 声をかけて、視線を送る。それだけでグレイは全て了承していた。
「お願い」
「分かっています」
 すぐにグレイはその場を立ち去る。
「クレア様?」
 ミリィがどういうことなのかと尋ねてくる。
「あなたはいいのよ。これは以前からグレイにお願いしていたことだから」
「はあ」
 そしてヴァンを近づけ、小声で尋ねる。
「ヴァン。この事件の首謀者は?」
「はい。捕まえた男の名前はもう分かっています」
「裏を取って。煽動している者がいるわ」
「まさか」
「今までの一連の事件、多分、誰かの暗躍があるわ。既得権益を奪われた何者か。グレイにも調査指示を出しているわ」
「はっ。尋問は厳しくいたしますか」
「あら、ヴァン。私たちはアペリスの法をもってなるシーハーツ軍よ。そんなことができるはずないじゃない」
 ふふ、とクレアは笑う。
「あなたに任せるけど、手荒なことはしないで」
「分かりました」
 ヴァンは彼女に忠実だ。自分の考えで行動できる力を持ちながら、決してクレアの指示に逆らおうとはしない。
 だからこそ信頼できるし、師団全てを任せることができるのだ。
 まさにこの光牙師団における、自分の分身。
「さて、戻るわよ、ミリィ」
「はい。でも、もういいのですか?」
「ええ。もう手は打ったから。ここに来た価値は大きかったわよ」
 またクレアは笑った。



 午後2:35 自室にて

 というわけで、結局昼寝をする時間は完全になくなってしまった。
 それどころか昼食まで中途半端で今まで何も食べることができなかった。
 部屋に置き去りにされたサンドイッチは気のきく誰かが勝手に下げてしまっていたらしい。
 自室に戻る前にラッセルに状況の報告に行ったのだが、それが案外長引いてしまって食事時間を削る羽目になってしまった。
 お食事。お食事。食べ物の恨みは恐いのだ。これは誰かに何かに復讐してやりたくなる。
「クレア様」
 戻ってきた彼女にミリィが話しかける。
「何?」
「先ほどいらっしゃって、これを渡してほしいと」
 何かしら、と受け取った包みを開けてみる。
「あら」
 それを見て彼女は思わず顔をほころばせた。
「これは私に太れっていう意味かしら?」
「クレア様」
 ミリィが苦笑する。
「昼ごろにもいらっしゃったそうですが、城下で問題があったので出ていったと聞いて食事も結局取れないんだろうって、
 わざわざ買いにいってくださったそうですよ?」
「そういえば昼に会う約束だったわ。すっかり忘れてた」
「それはひどいですよ。あとで謝ってくださいね」
 中身を取り出すと、それはイチゴのショートケーキだった。ご丁寧にミリィの分もあるらしく、ちゃんと二つ用意されていた。
「紅茶を淹れますね。少し休憩にいたしましょう」
「悪いわね」
 結局彼女はケーキを食べ終わるまで、顔が元に戻ることはなかった。人間やはり、甘いものには弱い。



 午後5:49 調査完了

「ただいま戻りました」
 グレイがようやく戻ってくる。その顔は真剣だ。どうやらうまく手掛かりをつかめたらしい。
「どうだった?」
「ビンゴですね。さすがはクレア様です」
 クレアは、してやったり、と顔をほころばせた。
「正体は?」
「けっこう大物ですよ」
「もったいぶらなくていいわよ。誰?」
 クレアはこの一連の新旧軋轢の裏に暗躍する者がいると感じた。
 だから事件が起きてすぐに現場に飛び、そこに集まっている野次馬たちに目を向けることを続けていた。
 ここ二十日間で八回現場を確認し、そのうち五回、同じ顔を見かけた。そこでグレイにその男の後をつけさせた。
 その結果は。
「ドラ子爵です」
 その名前はさすがにクレアを驚かせた。
「ペターニの? それはまた、随分大物が出てきたわね」
「はい。ですが間違いありません。ドラ子爵の本邸はペターニですけど、ご存知の通りシランドにも家を持っています。
 シランドに滞在するときのための別荘ですが、男はその別荘に入っていきました」
「ドラ子爵はこっちに来ていないわよね。じゃあ今、その屋敷は」
「使用人が一人いるだけです。おそらくその男ですね。名前と年齢、人相書きまでは作成完了しています」
「ありがとう。でも、意外なほど大物が出てきたわね。何をたくらんでいるのかしら」
「ペターニ貴族ですからね。あれじゃないですか。シャロム家の例の噂」
 グレイが声を低くする。もちろん他に誰もいないが、どこで聞き耳を立てられているか分かったものではない。
「ドラ子爵は確かにシャロム公爵家に縁があるわね」
 シャロム家は以前から不穏な噂がある。シャロム家の公爵夫人がクーデターを謀っているというものだ。
(クーデターを起こすには民衆を煽動するのが一番。シランドの新旧軋轢に目をつけて、あちこちで暴動を起こし、攪乱させる。
 もちろんできないことではないけれど)
 もし本格的にシャロム家が動いているとなると、単純な問題ではなくなる。
「どうします」
「どうするも何も、簡単に話せることじゃないわ。グレイ、この件についてはあなたは何も知らないことに──
 いえ、あなたに頼むのは申し訳ないけど、連絡係を務めてもらうことになるかもしれないわ」
「連絡ですか?」
「ええ。この件について調査できるとすればネルしかいないわ。これは少数で解決しなければいけない問題。
 国の浮沈に関わる可能性があるのだから。政治家の方では女王陛下とラッセル様。あとは私とネル、それにあなた。
 情報を共有するのはここまで。たとえ恋人でも教えちゃ駄目よ」
「分かっています。情報の重要性は、クレア様からいの一番に教えられたことですからね」
「ならいいわ。後でネルと話すから、その後でいろいろと動いてもらうことになるかもしれないけど、よろしく頼むわね」
「はい。光牙師団の人間なら、クレア様に『よろしく』と言われて引き下がる奴はいませんよ」
 ふふ、とクレアは笑う。
「頼りにしてるわ、グレイ」
「はい!」
 そうしてグレイが出ていくのを見送り、険しい表情に戻る。
(まずいわね)
 以前から浮上してきていたシャロム家の問題。どうやらいよいよ本格的に調査しなければならない段階にきたようだ。
 まずはラッセル執政官、そして女王陛下と相談し、今後の方針を決定することが必要だ。
(今日は、長くなりそうね)
 いや、きっとこれからしばらく忙しくなる。今日はそのオープニングなのだ。
(まったく、少しはゆっくりさせてほしいものね)



 午後9:48 会議終了

 そうして夕食も無視して女王、ラッセルと会議を行い、今後の方針が決まる。
 とにかく諜報といえばネルがいなければ話にならない。現在は各地の視察でシランドにはいない。
 たとえクーデターを起こすとしてもそれほど急いだものにはならないだろうと判断し、まずはネルの帰還を待って潜入捜査をすることに決まった。
 ドラ子爵への見張りをどうするかということについては、現状では見送りとした。
 諜報のことならネルの意見が優先される。クレアが下手に動いて、相手に気づかれるのはまずい。
 ただ、いつでも対応はできるように、警戒はしておかなければならない。緊急時の配置など、考えることは多い。
(そうなるとヴァンには話しておかないと駄目よね。あとミリィも。
 【光】はこの四人までで情報をおさえて、あとはネルの方はやっぱり、アストールとファリン、タイネーブ)
 最少人数とはいえ、こちらが動けなくなるのはまずい。ある程度信頼のおける人間の中からメンバーを選んで行動しなければならない。
(ああもう、今日は徹夜になるかもしれないわね)
 ヴァンからの報告も聞かなければならないし、ミリィやグレイと打ち合わせる必要もある。
 それに今日はこの件で他の業務が滞っている。もう何もかも山積みだ。
 そうして自室に戻ってくる。ミリィに紅茶を淹れてもらおうと思っていたが、残念ながら彼女はいなかった。
 そのかわり、意外な客がいた。
「随分と遅かったね」
 少し困ったように、それでいて優しく、彼は彼女に微笑みかける。
「ええ。ちょっといろいろあって。昼はごめんなさい」
「いいよ、話は聞いてるし。大事な仕事をおろそかにする人じゃないのはわかってるから」
 彼はそれ以上は追及してこなかった。
 たとえ、彼女と彼の間柄ではあっても、自分はクリムゾンブレイドであり、簡単に情報を漏らすわけにはいかない。
 その立場をわきまえているし、彼もよくそれを分かっている。
「お茶でも淹れるね」
「いいわよ、別に」
「疲れてるときくらい、少しリラックスしないと駄目だっていつも言ってるだろ」
 彼は慣れた手つきで茶器を扱う。初めのころは全然使い方も分からなかったのに、今となっては一流の紅茶職人だ。
「それから、昼はケーキをありがとう」
「食べてくれたんだ、良かった」
「ミリィも美味しいって言ってたわ」
「クレアは美味しくなかったの?」
 答が分かっていて聞くのは卑怯というものではないだろうか。むう、と彼女は頬を膨らませる。
「美味しかったわよ」
「よかった。きっとクレアの口に合うと思ったんだ」
 彼はそう言って注いだカップを手渡す。受け取って一口含む。いつもと味が違う。
「あれ、これ?」
「ハーブティ。リラックス効果があるっていうから、前からちょっと練習してたんだ」
「そう。私のため?」
「他に何があるっていうのさ」
 彼は自信満々に言う。そうやって自分を安心させてくれるのが何よりありがたい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そうしてもう一口含む。少し癖があるけど、確かに今まで少し昂ぶっていた心が落ち着いていくのを感じた。
「今日はまだ忙しいの?」
「ええ。ちょっと仕事をためちゃったから」
「他にいろいろやることあるからだろ。まったく、クレアはいつだって仕事を背負い込むんだからなあ」
「他に任せることはできないもの」
「わかってる。でも、少しは休まないと判断を間違えることだってあるだろ?」
「ええ。でも──」
 と、そのとき強い睡魔が彼女を襲う。
「……何か、お茶に入れた?」
「いや、何も。ただ睡眠導入の効果があるハーブティっていうだけ」
「仕事があるのに」
 むー、と口をとがらせる。
「今から寝たら、明日はすっきりと起きられるよ」
「だからって、今日の分の仕事をためると」
「悪いけど、ヴァンさんもミリィさんも今日は来ないよ。三人で相談して、今夜はクレアを休ませようっていうことに決めたから」
 全く、いつの間にそんな包囲網ができていたのか。
「部下に気遣われるようじゃ、まずいんじゃないの?」
「わかってるわよ」
「わかっていないよ。クレアが体調悪そうにしていたら、他の誰よりも僕が一番心配になるんだから」
 そう言って、彼は悲しそうに見つめてくる。
「分かったわよ。わかったから、そんな目で見ないで。今日はすぐ寝るから」
「ああ、ありがとう」
 全く、彼のその目には弱いのだ。彼には逆らえない。もし彼と国と、どちらを取るかといわれたら、自分は簡単に選ぶことはできないだろう。
「クレア」
 彼は言って近づいてくると、ちゅっ、とその唇を合わせた。
「お休み」
 そして彼がにっこりと笑って部屋を出ていく。
 ずるい。
 いきなりで、何も対応できなかった。
 それどころか。
「……目が冴えちゃったじゃない。ばか」
 真っ赤になって、彼女は小さく言った。



 午後10:39 就寝

 明日も、アペリスのご加護がありますように。




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